「…最近の若い人って…すごいんだよ…」
|和美《かずみ》は、子供が寝静まった後、束の間の夫婦だけの時間になると、夫である|竜一《りゅういち》にそう話しかけた。
※※※
今日、和美は久しぶりに繁華街に買い物に出かけた。
現役の歯科衛生士として市内の歯科へ勤務する和美は、普段そうそう繁華街へ出かける事はなかったが、友人の結婚式に着ていく服を新調する為に止む無く出かけたのだ。
あれこれと迷いながら買い物を楽しみたい所だったが、家に帰れば夫や子供たちがお腹を空かせているに決まっている。
和美は早々にフォーマルな席に相応しい服を購入すると足早に家路についていた。
その道すがら…若い男がまだあどけない女の子をナンパするのを見かけた。
(…これだから、人の多いところに来るのはイヤなんだよね…)
とは言え、他人のナンパ行為に口を出すほどの勇気もない。
和美は、ナンパされている女の子の横を気の毒に…と思いながら通り過ぎようとしていた。
その時…
「あなた…おちんちん大きい?」
あどけなさを残す女の子の口から和美には到底信じられないセリフが飛び出した。
(何…?…)
一瞬聞き違いかと頬を1人赤らめた和美。
だが、
「大きくないの?…じゃあ、良いわ…」
聞き間違いだと思った和美の耳に再び飛び込んできたこのセリフ…どうやら最初の言葉も聞き違いではなさそうだった。
(男の人の…その…アソコの大きさを聞くなんて…大きかったら着いていくつもりなのかしら…)
和美の中の常識ではありえない…そもそも、大きさどころか、ナンパ等してくる時点でそんな男は嫌いだ…それが今の若い女の子ときたら…。
和美は足早にその場を離れて、大切な家族の待つ我が家へと急いだ。
※※※
「みんながみんな、そこまで乱れてる訳じゃないだろ」
竜一は一通り和美の話を聞き終えるとそう言った。
「そうだけど…近頃の若い人って…」
先ほどから「若い人、若い人」と連呼しているが、和美自身もまだ30代半ばだ。
還暦を過ぎたような人生の大ベテランから見れば、和美だって十分に「最近の若い人」の仲間入りだろう。
だが、和美はそんな事は全く考えていないのか、近頃の若者ときたら…と続けていた。
それには訳があった。
和美の夫は普通の会社に勤める、ごく普通のサラリーマンだ。
大金を稼いでくる訳ではないが、切り詰めれば家族4人が普通に生活をするだけの稼ぎはある。
しかし、幸いにも和美は歯科衛生士の資格を持っていた。
世間では大不況で就職先もないそうだが、歯科衛生士にその常識は当てはまらなかった。
内科や外科の普通の病院と違って、歯科は近距離にたくさんあるし、おまけに歯科衛生士は女性が多い…中にはせっかく資格を取得したのに、結婚、退職…と言う道を選ぶ者も少なくないからだ。
和美は、結婚し子供を2人儲けた今でも市内の歯科医院で働いて、家族の生活水準を上げる事に貢献していた。
勤め先の歯科は先生も良い人だし、同僚の歯科衛生士も皆良い人だった。
だが、患者はそうはいかない。
向こうは歯科を選べても、こちらが患者を選り好みする訳にはいかないのだ。
和美にも、仕事とは言えどうしても嫌いな患者がいた。
その男はカルテを見ると23歳…今日見た、あの女の子と同じ年代だった。
※※※
「ちょっと…もっと奥の方に何か挟まっているみたいな…そんな感じがするんですけどぉ~」
その男は語尾をだらしなく伸ばしながら言った。
和美の嫌いな話し方だ。
だが、和美がこの男を嫌う理由はそれではない。
歯科での治療は主に歯科医師が行うが、医師の指示の下であれば歯石除去などの周辺業務は歯科衛生士が行う事が出来る。
次から次へとやってくる患者の治療に忙しい先生は、歯石除去程度であれば衛生士に任せるのが普通だ。
その男は奥歯を見てくれと和美にいつも言った。
最初は真剣に異常を探していた和美だが、ある時から、この男の目的が歯の治療ではない事に気が付いた。
和美が座っている側と反対側の奥歯を覗き込むように仕向ける男…そうすると自然に和美は立ち上がって向こう側を覗き込まなければいけない。
その時、和美の胸は男の右肩辺りに触れる…この男は和美のムネのムニュムニュとした感触を楽しみたいだけだった。
それを悟ってから、和美は多少無理な姿勢になっても、出来るだけ自分の身体がこの男に触れないようにしながら治療していた。
だが、水しぶきや除去した歯石が眼中に飛び込まない為に目には厚手のガーゼが乗せられているにもかかわらず、この男はいつも治療されている部分から、和美の身体の位置を探り当て、必ず突き出したムネに身体を押し当ててきた。
不快でたまらなかった。
かと言って、和美はピシャリとその男を叱りつける事が出来る程、気の強い女ではない。
(今度こそ、先生に告げ口してやる…)
和美はそう思いながら夫と二人、寝床についた。
※※※
「ガチャッ」
乾いた音をたてて扉が開き、次の患者が入ってきた。
途端に和美の心は深く沈んだ。
(あの男だ…)
しかも、今日は先生が居ない。
歯科医師が1人でやっている、そう大きくない歯科である。
先生が学会や急病などで診察出来ない時には、出身大学から若い歯科医師が来て、その穴を埋める事もあった。
今日も歯石除去に|託《かこつ》けて、和美のムネに身体を押し付けてくる男…。
それでも抗議する事も出来ずにいる和美を見て、今日はブツかったフリをして時折、和美の丸い尻までもサッと触っては手を引っ込める…。
(気持ち悪い…助けて…)
だが、仕事として引き受けている以上、今日、大学から応援に来た若い歯科医師が指示した箇所だけでもきちんと歯石を取り除かないと…。
歯科衛生士としてのプロ意識と女としての不快な気持ちが和美の中で交錯する。
また、男の手が和美の臀部を撫でた。
その時、
「何をしている!」
少し離れた場所から怒号が聞こえた。
今日初めて会う、大学から応援に来た若い先生だった。
「何も…してないっすけど~」
しらばっくれる男。
「少し前から、そこで様子を見ていたんだよ…偶然じゃないだろう!…警察を呼んでも良いんだぞ…!」
歯科医師になるのは難しい…。おそらくこの若い歯科医師も青春の大半を勉強につぎ込んだのだろう…その体躯はヒョロリとしていて、とても喧嘩になったら、この男に勝てるとは思えない。
それでも和美の為に右手を硬く握りしめ、男を見据えて若い歯科医師は言った。
「すぐに出て行くんだ…支払いは結構!…どうしても歯が痛ければ、明日から別な歯医者へ行きなさい!」
男は、一触即発の顔つきで若い歯科医師を睨みつけていたが、キッパリと言い切った彼の勢いにおされて渋々と出て行った。
※※※
「先生…さっきは、すいませんでした…助かりました。」
最後の患者を見送ると和美は若い歯科医師にお礼を言った。
「いやぁ…もう夢中で…あんな事言っちゃって、近所の評判が悪くなったら先生に怒られちゃうかな…」
若い歯科医師は、そう言うと頭をポリポリと掻いて見せた。
「ああ言う患者は多いんですか?」
若い彼は、おそらく年上であろう和美に敬語で尋ねた。
医師…と言うだけで横柄な態度を取る若者もいる中で、和美は好感を持った。
「そんなに…多いって訳じゃないんですけど…時々いますね」
「そう…」
「先生は怒らないんですか?…」
「先生はご存じないと思います…私たちも証拠がある訳じゃないし…偶然触ってしまったと言われればそれまでですから…言えないんです」
「でも、さっきのは僕から見ても明らかにわざと触ってるって解りましたけどねぇ…」
「さっきの男の人は特別です。あんなに露骨な人、そうそういませんから」
和美はそう言った。
「そうなんだ…いや、実は僕ももう少し大学で勉強させてもらったら開業しようと思ってるんですよ…だけど…あんな患者ばかり来るんじゃ、開業はムリだなと思って…」
「なんでですか…?…」
腑に落ちない…という調子で尋ねる和美。
「ほら…見てくださいよ…」
若い歯科医師は自分の右手を開いて和美の前に差し出した。
その手が小刻みに震えている。
「僕、本当は喧嘩とかした事ないんですよ。今もさっきの事を思い出すだけで、手がこんなに震えて…カッコ悪いでしょ…」
彼は、自虐的に笑いながらそう言った。
「そんな事ありませんよ!」
和美は思いがけず大きな声が出た事に驚いてしまった。
彼も驚いているようだ。
「そんなことありません…さっきの先生…すごくカッコ良かったですよ…」
和美は声のトーンを普通に戻して最初から言い直した。
この数か月間の悩みの種だったあの男を彼は撃退してくれたのだ。
本当は怖いクセに勇気を振り絞って…和美のために…。
変な意味ではなく本心から出た言葉だった。
「そりゃ…嬉しいな…ありがとうございます…」
若い歯科医師は照れながらそう言うと、帰りましょうか…と和美を促して帰路についた。
(若くても…こんな真面目な人もいるんだな…)
和美は、いつか夫が言っていた「そんな若者ばかりじゃないだろう」と言うセリフを思い出しながら、晴れやかな気分で家路についた。
※※※
あの若い歯科医師は、それからも度々和美の勤める歯科へ助っ人にやってきた。
普段はそうそう自分の歯科を他人に任せたりしない先生だが、どうやら彼は先日の一件を先生に詫びたようだった。
それをキッカケに、彼はよく先生に助っ人を頼まれるようになっていたのだ。
どうやら、毅然とした態度と素直にその事を詫びた姿勢を先生も気に入ったようだった。
「お疲れ様でした」
今日も最後の患者を診終わった若い歯科医師は、和美にそう声をかけた。
あれから何度か助っ人に来ている事もあって、すっかり和美と彼は打ち解けていた。
「先生…あれから嫌がらせとか受けていないですか…?…」
和美は若い彼を心配して言った。
「大丈夫ですよ…僕の自宅はここからは遠いですし…」
彼は心配しなくても良いと和美に言った。
「それより、あんな事は忘れちゃいましょう。もう終わった話ですから」
彼は続けて言った。
「はい…それにしても…男の人って解んないですね…何でこんなおばさんを触りたいんだか…」
和美は笑いながら言った。
「おばさんなんて…和美さん…まだ全然若いじゃないですか」
何度か助っ人に来るうちに、彼は和美の事だけ「和美さん」と呼ぶようになっていた。
他の歯科衛生士は苗字で呼ぶのに…。
「そんな事ないですよ~…それに子供、2人も産んでますし…」
「えぇぇ!!お子さんいるんですか!?」
「はい…?…」
和美はそれが何か?と言う調子で言った。
「全然見えないな~…僕、もしかして独身かなぁ…なんて思ってましたよ」
「あはは…さすがにそれは褒めすぎですよ、先生…」
和美はケタケタと笑いながら言った。
だが、実際、外に出て人に見られる職業についている彼女は同年代の奥様連中よりも数段若く見えた。
若い彼が年齢を見誤ったとしても責める事はできまい。
「そんな…お世辞じゃないですよ…だって、僕は和美さんが、好っ…」
言いかけて固まる若い歯科医師…その顔は赤い。
(す?…好っ…?…)
和美は「す」の後を考えてドキドキと胸が高鳴るのを感じていた。
長く忘れていた…異性にドキドキするこの感覚…。
「あ…いや…和美さん…素敵だから…」
彼は「す」を取り繕うように言った。
(素敵…?…すてき…?…なんだ…素敵…の「す」か…)
「…ありがとう…ございます…」
和美は素直にお礼を言った。
勘違いした自分が恥ずかしく、自然と顔が赤くなる。
互いに赤い顔のまま誰も居なくなった院内で向かい合って座る2人。
「そろそろ…帰りましょうか…」
長い沈黙を破ったのは和美だった。
今日は買い物をして帰らなければならない。
ただでさえ、専業主婦の家とは比較にならないくらい遅い我が家の夕食…早く帰ってあげなくては家族に悪い…。
立ち上がろうとする和美へ、彼は慌てるように言った。
「あの…これから…ちょっと食事でも…どうですか。2人で…」
「ごめんなさい…今日はちょっと…子供も待ってると思うから…」
|あの時《・・・》と同じように小刻みに震えている彼の手…きっと精いっぱいの勇気を振り絞って和美を誘ったに違いない。
そう思うと、和美は目の前の若い歯科医に愛情とも同情とも違う…その中間のような…不思議な感情を抱いていた。
「来週…来週の土曜日だったら…」
「え…?…」
「来週の土曜日だったら…行けると…思います…」
和美は自然とそう口にしていた。
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