綾乃が岡田君にメールアドレスを教えてから一週間が過ぎ、2週間が過ぎても、妻のスマホには何の着信もないようだった。
(誘わない気なのかなぁ)
時間の経過とともに少しずつ弱気になる僕。
ついには一か月が過ぎても、何の音沙汰もない。本当は誘われているのに、妻が内緒にしているのではないかとも思ってみたが、それはなさそうだ。
綾乃は僕に嘘をつかない。もしついたとしても、妻は解りやすい性格だから、見抜く自信が僕にはあるのだ。
「あの・・・ちょっと相談があるんだけど・・・」
子供が寝た後で、妻があらたまって僕にそう話しかけてきたのは、もう彼女が今の会社を退職するまで3か月余りとなった頃のことだった。
※※※
妻があらたまって「相談がある」なんて言ってきただけで、僕は彼女が岡田君に誘われたに違いないとピンと来ていた。
「来週の土曜日・・・誘われちゃった・・・の」
予想通りの話を切りだす妻。
「誘われる?誰に?」
勿論、解っていたけれど、あれから一か月も経っているし、少ししらばっくれて見たりする。
「あ、だから・・・岡田君に・・・ゴハンに行きましょうって・・・」
「ふ~ん、で、何て返事したの?」
「まだ、してないよ。さっきメール来たばっかりだもん」
「あぁ、メールで誘われたんだ」
会社で毎日会っているだろうに、やっぱりこういうつもりでメールアドレスを訊いていたのだな・・と思う。
「覚えてるよね・・・約束」
「でも・・・」
「いいじゃない。ゴハンに誘われたからって、即、そう言う事とは限らないでしょ?それとも、エッチしましょうってメールに書いてある?」
僕は笑いながらそう言った。
「そんな事書いてないけど・・・これ・・はいっ」
そう言って、自分のスマホを差し出す妻。画面には岡田君からのメールが表示されている。
《急にメールですいません!会社じゃ忙しくてなかなか話せないので。もしも時間があったら来週の土曜日にでもゴハンに行きませんか?綾乃さんには色々お世話になったのに、このままじゃお礼も出来ずに退職しちゃうと思って焦ってます(汗の絵文字)お金はあんまりないけど、誘ったんだからちゃんと奢りますよ!あ、僕の給料が安いのは綾乃さんが一番良く知ってますよね(笑)お返事待ってま~す》
なかなかの長文だ。
このメールだけじゃ、彼に下心があるのかどうか判断はできない。だけど、もしも大人数で行くのであれば、他に誰それも来る・・・と書きそうなものだし、きっと2人きりで食事・・・と考えているに違いない。
「行っておいでよ・・・土曜日」
「・・・・・」
「別に、岡田君を誘惑しろなんて言わないからさ」
「でも・・・・・」
「嫌なの?」
「・・・・・どうしよう」
妻もここに来て、ようやく彼に下心があるのかもしれないと思うようになったようだ。相変わらず鈍い。普通ならアドレスを訊かれた時点で少しは察するものだろう。
「どうしようって?」
「だって、2人きりだったら・・・何かちょっと・・・」
「嫌いなの?岡田君のこと」
「そんな事ないけど」
「じゃあ、良いじゃない。おいしいゴハン奢ってもらっておいでよ」
「・・・・・」
「まだ何か?」
「だって、岡田君にゴハンに誘われた事なんて今まで1回もないし・・・」
「そこに書いてあるじゃない、綾乃が退職しちゃうから、慌てて誘ってくれたんだよ、きっと」
「それは、そうかもしれないけど・・・」
「他に何か問題でもあるの?」
妻が言いたい事は解っている。今まで一度も2人で食事に行こうなんて言われた事のない人に急に誘われる。しかも、その相手は、つい先日、自分と課長との卑猥な会話を聞いていた男の子だ。
いくら彼女が鈍くても、その卑猥な話を聞いて、妻のことを「そう言う眼」で見るようになってしまったのかもしれないと言う予感はするだろう。
それなのに、2人きりかもしれない食事に応じる・・・当然、彼は「そう言う関係」を望んでくる・・・。
それが妻が漠然と感じる不安なのだろうと思う。
僕としては内心ほくそ笑む。
何故なら「そう言う関係」になってもらいたいと思っているのだから・・・。
「拒否しない約束だったよね」
僕は言った。
「でも、それは誘われた時に考えようって言ったよ?」
「そうだっけ?でも拒否しないって約束だけはしたよね?」
「そんな約束・・・」
「したよ・・・約束」
していない。
妻の言う通り、結論は先延ばしにしてあるのだ。
でも、このチャンスは逃したくない。
「まだ食事に誘われただけじゃない。食事を拒否しないこと・・・それくらい出来るでしょ?」
「・・・・・でも、それ以上を望まれたら?」
「それ以上って?」
「だから・・・その・・・」
彼女の言いたい事は解るけど、惚けた振りをする。
「とにかく、望まれた事は拒否しない・・それだけ頑張ってくれたら、俺はすごく嬉しいよ」
「嬉しい・・・の?」
「嬉しいさ」
「どうして?」
「野本さんの時と同じだよ、俺のために、岡田君の誘いに応える綾乃を見ているのが嬉しい」
「・・・・・」
「食事・・・行けるよね?」
「・・・・・うん」
こうして、次の土曜日に妻は僕の知らない男と・・・それも僕よりも随分と若い20代半ばの男の子と食事に出かける事になった。
※※※
「ただいま」
妻が帰宅したのは、時計が22時を少し回った頃だった。会社の飲み会に参加しても23時にはなるから、それよりも早い帰還だ。
僕は妻と岡田君がホテルへ行ってコトに及ぶ事をおおいに期待していたから、もっともっと遅い時間に帰宅するものと思っていた。
それが、こんなに早い時間の帰還・・・。妻が帰宅したら、すぐに若い彼との情事の隅々までを聞きだそうと思って、子供を実家に預けてまで待機していたのに・・・さすがにこの時間では何もなかったんじゃないだろうかと少しガッカリする。
「どうだった?」
それでも僕は、真っ直ぐ自室へ入って着替えている妻の後ろ姿を見ながらそう訊ねた。薄暗い中で見える妻の下着姿・・・この姿を・・いや、その中身までを・・・はたして妻は若い彼に曝け出してきたのだろうか。
「うん、おいしかったよ」
すぐにそう返答する妻。僕が聞きたいのがそんな事じゃないのは知っているだろうに。
「岡田君とは・・・何も・・なかった?」
僕は渋々そう訊ねる。
「・・・・・うん・・・ううん・・・うん」
よく解らない返答の妻。
「何も無かったの?どこにも誘われなかった?」
「誘われなかったよ?ゴハン食べて、真っ直ぐ帰ってきた」
「そう・・・か」
妻には悪いが露骨にガッカリしてしまう。
「何もなく・・ただゴハン食べてきただけ?」
「・・・・・うん」
「ホントに?」
「・・・・・」
しかし、煮え切らない態度に何かはあったに違いないと感じる。
「正直に教えてよ」
「・・・・・チュウ・・・された」
「それから?」
「・・・それからって・・・それだけ」
「キスだけ?」
「そう・・・キスだけ」
最近の若い子は草食系だ・・・などと言うが本当らしい。目の前においしそうな人妻がいるのである。しかも、2人きりでの食事の誘いについてきている。
僕らの年代であれば、殆どの男が次のステップを考えるはずだ。
「キスしたんだ・・・」
「だって・・・急にされたから・・・ごめんなさい」
「あ、いや、別に怒ってる訳じゃないよ」
「・・・ごめんね」
怒っていないと言っているのに謝る妻。
「ただ、そこまでしたら普通の男なら我慢できずにホテルとか誘うよなぁ・・・なんて思ってさ」
僕は重苦しい空気を振り払うようにニコヤカに冗談めかしてそう言った。
「でも、本当に誘われなかったよ、真っ直ぐ帰ってきたもん」
「そっかそっか、解ったよ、で、ゴハンは美味しかった?」
「うんっ!」
ゴハンの話になると急に元気になる妻。
創作洋食だか何だか解らないけど、どんな料理を食べたとか、どれがどうで美味しかったとか、嬉しそうに話す。
「でも、結構高そうだね、それ」
「そうだね、結構したと思うけど、半分払うって言ったんだけど、結局奢ってもらっちゃったよ」
「何だか逆に悪いことしたね」
「・・・・うん」
支払いの話になると再び視線を落とす妻。別に彼が良くて奢ってくれたのだろうから、そんなに落ち込む事もないと思うのだが・・・しかし、理由はすぐに解った。
「それで・・・ね」
「うん、どうしたの?」
「お酒の約束・・・しちゃったの」
「お酒の約束?」
「・・・・・うん」
相変わらず要領を得ない妻の説明。話の中間が吹っ飛んで、結末に行ってしまうから、いくら夫婦と言えども理解が困難な時もある。
「岡田君と、お酒飲みに行く約束したってこと?」
「うん・・・ごめんなさい、なんか話の流れで・・・そうなっちゃって・・・」
「いや、怒ってないってば」
つまり、要約するとこうである。
思っていたよりもお高そうなお店に連れて行かれ、しかも全額奢ってもらった事に申し訳なさを感じた妻は、一生懸命、彼に半額支払わせてくれと言ったのだそうだ。
しかし、彼はそれを受け取らなかった。まぁ、男の立場からすればそれが普通だろう。
それでも尚、申し訳なさに支払おうとする妻に彼は言ったのだ
「それなら、今度、普通の居酒屋で良いからお酒に付き合って下さいよ。その時は半額出してもらいますから」
と。
申し訳ないから払うと言い続けた妻としては、それを拒否する事は出来なかったらしい。
結局、日時までは決まっていないものの、近いうちにお酒に付き合うと言う約束をした。
そうして、そのレストランが入るビルのエレベーターの中で彼に急にキスをされた。
「急にこんな事してすいません」
キスの後で謝る岡田君を後目に、それでも怒ることなど出来る訳もなく、妻はタクシーに乗って帰宅した。
(次は間違いないな・・・)
岡田君がどんな人間かは解らない。しかし、ここまでの事をしておいて、それでおしまいと言う事はないだろう。
上手い具合に次につなげているところを見ても、妻が言うような素朴な青年ではなく、それなりに遊びも解っているのかもしれない。
まぁ、それは僕の想像でしかないのだが、かなりの確率で、次にお酒に付き合った時には、妻の危惧する「そう言う関係」を望んでくるだろう。
「そう言う事なら、お酒にもきちんと付き合ってあげないとね」
僕は出来るだけ平静を装って妻にそう言った。
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