「どうも初めまして」
相手の男は落ち着いた声で挨拶すると、綾乃に深々とお辞儀した。
「あ、初めまして・・・」
人見知りの綾乃は、相手の眼を見る事なく、慌てて頭を下げ返す。
「待ちましたか?」
僕は相手の男性にそう訊ねた。
「いやぁ、遅れちゃ大変だと思って、早めに家を出たら、早すぎたみたいで・・・1時間くらい、ここでコーヒー飲んでました。このコーヒー、もう3杯目です」
屈託なく笑いながら、そう言う彼。30代と言うだけで年齢は知らないが、僕らとそう大きくは変わらないだろうと言う印象だ。
「それはすいませんね、じゃあ、早速移動しますか?」
僕らは、目的のラブホテルへ歩いて行けるくらいの距離にあるファミレスで待ち合わせをした。互いにハッキリと顔を知っている訳じゃないから、時間が来たら、相手の男性が僕にメールで座っている席を教えてくれる約束になっていた。
彼も早めに来ていたらしいが、僕らも少し早めに来ていた。相手よりも先に来ていて、事前に相手にそれと気づかれないように確かめたいと言う意図だった。
僕と綾乃がファミレスに入った時、1人きりの男性客は2人しかいなかった。後はカップルだったり、家族連れだったりした。だから、向こうは僕らが相手だと断定する事は難しかったかもしれないが、僕らは2分の1の確率まで絞り込めたし、2人の男性のうちの1人は、どう見ても中肉中背・・・いや、中背ではあったが、中肉には見えなかったから、彼から確認のメールが来る前に、かなりの確率で相手を絞り込む事が出来た。
僕らは事前に相手を確認出来た。
綾乃も当然、相手を確認した。
僕は綾乃に「彼」が相手で良いかと確認もした。
その上で、今、僕は「彼」に声をかけているのだ。
「いやいや、僕が勝手に早く来ちゃったのが悪いんですから、少しコーヒーでも飲んでゆっくりしてください」
早速ホテルへ移動しようかと提案した僕に彼はそう言いながら、ヒラヒラと掌を自分の顔の前で振った。
「そうですか?何だかお待たせしちゃって申し訳なくて」
僕は遠慮がちにそう言う。
「いや、僕も奥さんを目の前にすると待ちきれないのが正直な気持ちですが、奥さんが相当に緊張なさっているようなので」
緊張していたのは僕も同じで、彼にそう言われるまで、隣に座る綾乃の様子に気を配る余裕がなかった。
言われて隣を見ると、なるほど、就活中の学生が面接を受けているかのように硬い表情のままで姿勢よく座っている。
(やっぱり慣れていそうだな)
この状況で、相手の奥さんに気を廻せる余裕がある。
おそらくそれは間違いないだろうと思ったが、僕は直接問わずにはいられなかった。
「あの・・・あ、そうだ、なんてお呼びすれば良いですか?メールでは『太郎さん』でしたが、本名じゃないですよね?」
「ははははは、やっぱりそう思いますか?」
「え?本名なんですか?」
「本名なんですよ、益子太郎と言います」
「え?あの、良いんですか?本名なんて・・・僕らも市内に住んでますし、どこかでお会いするかもしれませんよ?」
「構いませんよ~。別に悪い事をしようって訳じゃないですし、それに、例えどこかでお会いする事があっても、お互いに困るような事はしないでしょう?」
確かに。
それはそうだ。
僕は今から、他人に妻を抱かせようとしている。
綾乃は、積極的でないとは言え、今から他人に抱かれようとしている。
目の前の『太郎さん』は、ネットに相手を募集して、夫公認で人妻を抱こうとしている。
いずれも、他人に大きな声で言えるような事じゃない。
例え、どこかで接点があったとしても、お互いに後ろめたい所があるから逆に安全と言う訳だ。
「あ、でも、そちらの名前は無理に名乗って頂かなくても大丈夫ですよ」
「はぁ」
彼の堂々とした態度に押されて、僕も名乗った方が良いんじゃないかと思っていたが、彼が間髪言わずにそう言ってくれた事で救われた。こうした所にも『慣れ』を感じる。
「あ、でも、出来れば奥さんの下の名前だけは知りたいなぁ」
彼は綾乃に視線を移すとそう言った。
「あ、えっと、あの・・・」
困ったように僕を見上げる綾乃。
「いいじゃないか、下の名前くらい」
僕は綾乃にそう言う。
「あ、あの・・・綾乃・・・です」
「あやのさん、彩ると言う字ですか?」
「あ、いえ、糸辺の綾と言う字です・・・」
「そうですか・・・あ、すいませ~ん」
視界にウエイトレスが入ると、彼は真っ直ぐに手を挙げて彼女を呼ぶ。
「あ、コーヒーで良いですか?」
「あ、はい・・・あ、いいえ、綾乃はコーヒーが苦手なので・・・」
「じゃあ、紅茶にします?」
彼はどこまでも落ち着き、堂々としていて、僕らは完全に彼のペースにハマっていた。お陰で、訊こうと思っていた「こういう事には慣れているんですか?」の一言を訊ねる事もできないまま、時間は過ぎて行ってしまった。
※※※
「初めて来ました、このホテル」
ホテルに入ると、部屋の中を見廻しながら彼が言った。
「駐車場から直接部屋に入れるんですね。これは便利だ」
僕らは、ファミレスから徒歩で移動してきたのだが、それでも駐車場から部屋に入る事が出来た。確かに便利だ。
「あ、シャワールームはあっちですね。ちょっと汗をかいたので使わせてもらっても良いですか?」
彼は部屋の隅のシャワールームを指差ながら言った。
「あ、どうぞどうぞ」
僕は彼にそう言う。
「では失礼して・・・」
軋むドアを開けて、彼がシャワールームに消える。
僕と綾乃は圧倒されっぱなしだったから、一息ついて2人でベッドに腰を下ろした。
向こうからが、彼が衣服を脱ぐ衣擦れの音が聞こえる。
僕は、綾乃の緊張を少しでも解してあげなければと、彼女へ視線を向けた。
そうして、言葉をかけようと口を開きかけた時、不意にシャワールームの扉が開いた。
「奥さん、良かったら一緒にどうですか?割と広いですよ、ここのシャワールーム」
『太郎さん』が腰にタオルを巻いただけの格好で現れてそう言った。
「ダメですかね?ご主人」
「あ、いや・・・」
ダメではない。
これから、身体の隅々まで曝け出して、コトに及ぼうと言うのだから。
「綾乃・・・行っておいで・・・」
僕は抑揚のない声で彼女にそう言った。
「・・・うん」
彼女は少しの間、自分を抱きしめるような格好で固まっていたけれど、やがてゆっくりと立ち上がると衣服を着たままシャワールームへ向かった。
やがて、シャワールームの扉の陰に綾乃が消えると、再び軋みだすドア。
「あ、ご主人・・・」
「ん、はい?」
「勿論、覗きに来ていただいて構いませんから」
『太郎さん』は一言そう言うと、にっこりと笑って扉を閉めた。
※※※
扉の向こうでは、しばらく、ゴソゴソと人の気配がしていた。
「奥さん、着やせするタイプなんですね」
薄いドア越し太郎さんの声がした。
「やだ、恥ずかしいです・・・から」
「何も恥ずかしいことなんてないじゃないですか!すごくキレイですよ」
(綾乃・・・)
僕の鼓動が一気に激しくなった。
会話の内容から察するに、綾乃は裸身を彼に晒したのだろうと想像がつく。明るい中だから、恥ずかしがって手や腕で胸や下腹部を隠してはいるだろうが、そんな格好を他人に見られていると思うだけで興奮する。
――キュッ
コックを捻る音が聞こえた。それに続いて、サァ・・・と言うシャワーの音。
しかし、シャワーを始めてしまうと2人の話声は聞こえても、その内容まで聞き取れるほどハッキリとは聞こえない。
――ドクッ、ドクッ、ドクッ・・・
自分の鼓動が聞こえる。
今、綾乃はどうしているのだろうか。
シャワーを浴びる太郎さんの姿を黙って見ているのか、それとも綾乃がシャワーを浴びる様子を太郎さんがイヤらしい目で眺めているのか。
(あぁ、ダメだ)
僕も本当は余裕のある所を見せたかった。
だから、2人がシャワーから出てくるまで、様子は見に行かないでおこうと思っていた。
しかし、そんなやせ我慢は長く続かない。僕は足早にシャワールームに向かうと、ノックもせずにその扉を開けた。
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